39+15の夜

    尾崎豊

    誰にも縛られたくないのは、50を過ぎても変わらない。とは言え、自分の存在が何なのかに疑問を持ったとしても、会社にしがみつく必要はない。そして、ぼくは今夜、転職の計画を立てている。

    独立自営でない限り、おとなは所属組織に縛られる。縛られたくないのは、自分のアイデンティティとフィロソフィだ。それは、哲学書を読んだことがなくても、誰もが持っていて、それが人格(こころ)を形成しているのだと思う。それを認めてもらえなければ、ぼくは最低限の自由を失う。

    逃げ場のない10代は、発信したシグナルをおとなに気付いてもらえず、家出や自殺を選択する。ぼくは、10代よりは自己主張ができるので、シグナルではなく、明確な言葉と文字で意思表示をする。それを尊重されていないと感じた時、そこが決断すべき時なのだろう。

    上司への反発と、転職への不安に震えながら、ぼくはこれを書いている。でも、公開するのは転職が決まった後だ。

    ぼくは尾崎豊と同じ年に生まれたが、彼にリアルタイムの影響を受けてはいない。それでも感じるのは、彼の後、やり場のない10代の声を代弁する表現者はいないということだ。そして、この国は、尾崎がデビューした頃から指摘されている国家の根本的な問題に向き合おうとせず、権威を取り繕うことばかりをしてきた。

    根本的な問題は、国全体の権力構造にあり、その問題が「管理する側が優位に立つ社会」をもたらしているのだと思う。根本的な問題を社会の問題として認めようとしないから、問題はさらに悪化している。とうぜん、管理者たちが振りかざす大義(表向きのきれいごと)と現実とのギャップもさらに広がっている。

    そして、尾崎の没後まもなく、鬼束ちひろが『月光』で唄った「腐敗した世界」は、さらに腐敗が進んだ。漠然とした不満を持つ者や、社会にまったく興味がない者は、自分より弱い者を攻撃するようになった。そのやり方は、いじめ、パワハラ、セクハラ、DV(ドメスティク・バイオレンス)、幼児虐待、あおり運転など様々だ。

    一方、国のシステムにこころを委ねた先生という管理者は、あいもかわらず権威やルールで生徒を縛ろうとしている。しかし「あなたのため」といった子供だましの方便が見透かされたとき、管理者の権威など崩れ去る。信頼など欠片(かけら)もない。

    おとなの僕を縛ろうとするのは、学校でなく、会社や国家だ。そして僕は、国から逃げたくなる事態を想定し、外資系企業で英語を学んできた。国から逃げたくなる事態は、僕の悪行ではない。想定しているのは、国家の管理が強すぎて、日本に住み続けることを断念したくなる事態である。ぼくは過度に縛られることに耐えられないし、異物排除に誘導される集団を見たくはない。

    だから次の転職先も、英語の能力で自分の価値が大きく左右される外資系企業になるだろう。僕は、自由を確保するために、自分を追い込む環境を選択しているつもりだ。

    ついでに書けば、ぼくは17ヶ月間、ほとんどの週末を失いながら、国家に争いを挑んだことがある。そうして挫折し、都会から逃れ、辿り着いた北海道で、ささやかな自由を噛みしめているのが今の田舎暮らしだ。

    でも僕は、安定ばかりを求める老人のような20代より、自分のほうがずっと若いと思っている。

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