野村かずや
1965年2月25日(56歳)
高校を卒業するまで、佐賀県鳥栖市で育ちました。子供の意思を尊重しない父に反発し、早く家を離れることばかりを考えていました。
大学は、働きながら通える横浜国立大学経営学部の夜間コースに進んだ。仕送りは受けず、学費も自分で工面しました。途中1年間の休学と、バイト先の会社で社員となり、忙しくなったことから、学業がおろそかになりました。そうして、9年かけて、何とか卒業しました。
大学卒業後、あこがれの北海道に移住。米国製の手術機器を販売する商社に入社。北海道の主要病院へのルートセールスをしました。東は釧路から南は函館まで、ひと月の交通費が、給料より高くなるほどの移動を繰り返す。仕事はハードであった一方、休暇は充実していました。冬はスノーボード、夏はハイキングやサイクリングを楽しみ、すっかり北海道生活になじみました。
家族の事情で、ふたたび横浜に転居。後に超氷河期と言われる時期であったため、職を転々とする苦しい生活が続いた。一時期は、フリーライターとして、出版社に記事を売っていた。このときの経験が、後に政治を志すきっかけとなった。
縁あって入社した不動産関連の会社で、もっとも長く勤続することとなりました。そこでは、営業企画とマーケティングを中心にキャリアを重ねることができました。
2015年、長く務めた横浜の会社を退職し、ふたたび北海道に移住することにした。仕事は、倶知安町樺山のリゾート物件の販売と管理をする会社で働くこととなった。
蘭越町富岡で小さな家を購入したものの、そこまでの除雪がないので、スノーモービルに乗り換えなければならない。そんな不便な生活も気に入っている。最初の冬には、私設の水道設備が故障し、正月から春先まで、水が使えないという事態も経験した。そんな苦難に動じないメンタルもできた。
ヒラフ坂下にAruku-zaka Streetを開発しているTMK MHL ARK Developmentの系列会社に転職。COVID-19の影響に伴う事業再編により、2020年8月末で退職した。
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最初の冬を越したころに、チセヌプリスキー場の運営に対しての悪評を耳にしました。
私は、リフトが動いていた頃のチセヌプリスキー場で滑った経験はなく、チセヌプリに特別な思い入れはありません。しかし、移住先の家からもっとも近いスキー場であることと、横須賀の知人から、チセヌプリスキー場の雪質の良さやスキー場上部に広がるバックカントリーの話しを聞かせれていたこともあり、いつかチセヌプリスキー場で滑ることを楽しみにしていました。
移住して、蘭越町がチセヌプリスキー場を売却したことを知りました。その後、購入した会社がCAT(雪上車)スキーを行っていることは耳にしていたものの、料金が安くないことは容易に予想がつくので、行こうと思ったことはありませんでした。
チセヌプリスキー場の悪評は、バックカントリースキーヤーを斜面から排除しているというものでした。私は、まず詳細を調べることにしました。そうして、ある程度の予備知識を得た後、蘭越町に話しを聞きに行くと、副町長の山内氏が対応をしてくれました。
しかし残念ながら、チセヌプリスキー場の排他的運営に対する悪評について、山内氏からは、対応すべき当事者としての回答はありませんでした。
そこで町に対し、行政文書の公開を求め、まとめた内容を次のwebサイトで見られるようにしました。
2020(R2)年10月25日に行われた蘭越町議会議員補欠選挙においては、残念ながら落選しました。
投票いただいたみなさまに厚く御礼申し上げます。
北海道磯谷郡蘭越町字富岡1035-3
野村かずや
email : kazuya@rural-escape.com