大きな試練

ぼくは二十一歳で免許を取り、すぐに運転経験が必要な営業職に応募した。ペーパードライバーなのに「運転経験がある」と言い、初出勤の前日にレンタカーで経験の帳尻を合わせた。

会社のクルマは他の社員と共用で、カセットデッキには佐野元春のテープが入れっぱなしになっていた。ひとり出かけるとき、サムデイのイントロを聞くと気分が上がった。歌詞は2番が好きだった。

手遅れといわれても 口笛で応えていたあの頃
誰にも従わず 傷の手当もせず

それから30年以上が経過した。いま、集落から離れた場所に暮らす僕にとって、クルマは欠かせない。でも、冬に限れば、クルマに乗っている時間よりも、スノーボードに乗っている時間の方が長いだろう。

そして今シーズン、ぼくのライディング技術は目覚ましく進歩した。新調した板とブーツも調子がいい。残るバインディングを試行錯誤する過程で、ぼくは激しく転倒した。お試しで買ったサイズの合わない中古バインディングが外れたのだ。転んだ直後に、左肩に強い痛みを感じた。

ぼくは、2年前に鎖骨を骨折し、金属プレートを埋め込む手術をしている。去年は、それを取り除く手術をした。そして、今回の転倒で痛めたのも左肩だ。でも、それが鎖骨の痛みでないことは自覚できた。だから、自然治癒を期待して、病院には行かなかった。

転倒から1ヵ月が経過しても、良くなるどころか、痛みは増してきた。そこでようやく病院に行くことにした。しかし、10連休の余波はGW前にも及んでいて、予約を取ることはできなかった。GWが明けて、やっと漕ぎつけた診断の結果は、肩腱板断裂だった。

手術後、最低でも入院が1週間、完治するまで半年、それまでずっとリハビリが必要と言われた。しかも、倶知安に専門医がいないので、札幌の病院で手術する必要があるとのことだった。僕は、紹介状を待つ間、回復の早い関節鏡での手術をしてくれる病院を調べた。そして、紹介先をその病院にしてもらった。

そうして、ぼくは退職の翌週に入院し、手術を受けた。ただし、ドクターに頼んで、手術の翌々日に退院した。快適な新緑の季節を病院で過ごしたくなかったからだ。その代わり、ひとり自宅で耐える痛みは、予想よりもきつかった。夜中に痛みで目が覚め、患部の冷却と投薬で痛みをやり過ごす日々が続いた。

入院中に理学療法士から教えられたリハビリの基本は、ストレッチと同じに思えた。伸ばす筋肉を意識しながらも、決して力むことはなく、ゆっくりと伸縮を繰り返す。ぼくは1日に2、3回のリハビリをおこなった。リハビリがうまくいけば、夏が終わる前に夏らしいことができるかもしれない。だから、モチベーションは高かった。早期回復の世界記録を打ち立てる意気込みさえあった。それにQOL(術後生活の質)に意識の高いドクターなので、ぼくが早期に回復すれば、ドクターも喜ぶと思い込んでいた。

手術から1週間後の診察、その日で治療を終わりにしてもらうつもりだった。ぼくは、意気揚々と回復ぶりをアピールし、治療の終結を求めた。ドクターは、笑いながらも、それを強く否定した。2週間装着するはずの装具を手術から4日後に外したことが、ドクターには看過ならなかったようだ。数千人の症例を診てきた経験を背景に「自分の判断で勝手なことすると後から痛くなるよ」と言われ、ぼくは計画を変更せざるを得なかった。

sling補足しておくと、手術をしてくれたドクターは、日本でトップクラスの肩の専門医だ。術後には、腱と骨の固定は万全で外れることはないと言われた。そこさえ外れないのなら、痛みに耐えてリハビリをすれば早期回復できると思った。また、装具による過剰な固定によって、痛みのない安心感と引き換えに、それを外す恐怖が増長されていると推測した。さらに、固定期間が長過ぎることによる健常な筋肉の劣化が、長期リハビリを余儀なくされる要因であることを疑った。ぼくが手術の4日後に装具を外した背景には、こうした推測があったのである。

とにかく、装具はあと1週間の付けていよう。次の診断とリハビリの指導までの1ヵ月は、自宅でのリハビリが続く。一方、ボーナスの多くは治療費に消えた。夏の予定は何も立てられない。そして、新しい会社での仕事が始まるまで、旅行にも行けず、ひとり自宅で安静にするほかに術はない。

でも、ぼくは早期回復をあきらめたわけではない。

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